Article

秀吉の朱印状 「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」

温泉で武将の規律 厳格に

織田信長の草履(ぞうり)取りから出世し、ついには天下統一を果たした豊臣秀吉。武雄鍋島家資料の中には、その秀吉の朱印状が2通あります(いずれも武雄市重要文化財)。

1通は、天正18(1590)年3月7日、龍造寺隆信の実子で、武雄の後藤貴明の養子に入った家信に与えた朱印状で、その3年前の天正15年、秀吉の島津攻め(九州出兵)に龍造寺隆信とともに参戦した家信に対するほうびとして、「きしま(杵島)郡内 長嶋庄」「同郡 塚崎庄」など合わせて1万9703石9斗の所領を認めたもの。これにより、後藤家信が武雄地方の実質的な支配者となったことを示すものです。

また、もう1通は、秀吉が、朝鮮出兵の前線基地として、肥前名護屋(現在の唐津市鎮西町)に築城し全国の武将らを集めた際に出した天正20(1592)年6月18日の朱印状です。これは「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」と呼ばれる書状で、「地元の者にけっして迷惑をかけないこと」「入浴の者たちの宿賃は一日五文を支払うこと」「屋敷周りの用木などを勝手に伐り取らないこと」「違反の者は処罰すること」などが記されています。戦陣での疲労を癒やすために武雄温泉を訪れる武将らの行動を厳しく取り締まる内容となっており、湯治の人々でにぎわいを見せた武雄温泉の様子の一端をうかがわせる内容となっています。

http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/151228
参照元記事 / 佐賀新聞

豊臣秀吉塚崎温泉掟書 / 佐賀新聞

豊臣秀吉塚崎温泉掟書 / 佐賀新聞

Powered by: Wordpress