街歩きが楽しい新緑の季節がやってきた。今回は、坂道愛好者であるタモリさんと「日本坂道学会」を結成する、坂道研究家の山野勝さんに、今も残る江戸のおもしろ坂名の由来を伺った。知っているといつもの散策がより楽しくなるうんちくの数々を紹介。
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東京の山の手には、江戸時代に命名された坂が500余りもあります。なぜ、こんなに多いのでしょうか。それには二つの理由が考えられます。
一つは、東京(江戸)の地形が台地と台地の間を川が貫き、複雑な凹凸で成り立っているためです。川が削った谷筋を横断するには、A台地を下り、さらにB台地へ上らなければなりません。ここに多くの坂が生み出される必然性があったのです。
二つ目の理由は、江戸の総面積の8割を占めていた武家地と寺社地には町名がつけられていなかったからです。目的地への目印として、町人が坂に名前をつけて町名の代わりにしたため、多くの坂に名前がつけられることになりました。
富士見坂や潮見坂など、命名の由来がすぐわかる坂以外に、町人はユニークな坂名を考え出しました。以下、その具体例を挙げてみることにします。
【三百坂】松平播磨守に召し抱えられた下級武士は、裃(かみしも)姿で殿様に御目見得(おめみえ)を済ますと、衣服を着替えて登城行列に加わらなければならなかった。遅れると300文の罰金が科せられたため、その名が生まれました。
【鬘(かつら)坂】この坂で一人の男が急死しました。調べてみると、この男は遊里帰りの僧侶で、鬘をかぶって変装していたことが判明。それ以来、桂(かつら)坂と呼ばれていたこの坂を鬘坂と書くようになったといいます。
【姫下(ひめおり)坂】渋谷長者の娘と白金長者の息子が恋に落ち、坂下に続く笄(こうがい)橋で密会することになりました。娘は坂上で駕籠(かご)を降り、笄橋まで歩いていったそうです。そのことから、姫下坂の名がついたそうです。
【三分(さんぷん)坂】「さんぶ」と読むのは誤り。三分(ぷん)とは貨幣の重量単位で、銀1匁(もんめ)の10分の3のこと。今の200円くらいか。急坂を上る、車のあと押し料金や、坂下にあった渡し舟からの荷上げ料金などに由来します。
【見送り坂・見返り坂】昔、太田道灌が江戸を領していたころ、罪人はU字型のこの坂で江戸から追放されたという伝承がありました。江戸の人々は、親類縁者はここで見送り、罪人は振り返って涙の別れをしただろうと想像して、その名をつけたのです。
【逢(おう)坂】奈良時代、武蔵守の小野美作吾(おののみさご)は、さねかずらという娘と恋に落ちた。やがて彼は都に帰ることになったが、娘の夢の中に現れ、この坂で再会したという――この伝説から大阪と書いたこの坂に逢坂の字をあてたのだといいます。
そのほか、三べ坂・二合半坂・於多福(おたふく)坂・伊皿子(いさらご)坂・一口(いもあらい)坂など、判じ物めいた坂名も数多くあります。かように江戸の坂の命名由来は、機知があふれていて魅力的なのです。
(坂道研究家・山野勝)
江戸時代の人たちのセンスが垣間見える坂の名前は上記のほかにも、山野さんの著書『大江戸坂道探訪』で詳しく紹介されている。ページをめくって、自宅や職場の周りの坂を探してみると新たな発見があるかもしれない。
http://dot.asahi.com/news/domestic/2014061900047.html
参照元記事 / dot.