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姫路城400年、人の力と幸運と 廃城の危機や戦災越えて

「平成の大修理」を終えた世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守内部が27日から、5年ぶりに一般公開される。築城からおよそ400年。廃城の危機、火災、空襲…。白鷺(しらさぎ)に例えられる美しい姿は、多くの人の尽力と幸運によって守られてきた。今、平成の職人たちの手でよみがえった白亜の城が、未来へと受け継がれる。

現存する大天守は関ケ原の合戦後の1601年、“西国将軍”と呼ばれた池田輝政が築造に着手した。その8年後、日本城郭建築の最高峰と称される城が姿を現す。

「継続的な修理で伝統技術が伝えられ、城は維持された」。26日の完成記念式典。文化庁の青柳正規長官がそう強調したように、城の歴史はまさに「修理の歴史」だった。

当初の姫路城は、優れた防御の工夫で「難攻不落」とされたが、大天守は構造的な弱点を抱えた。基礎の地盤沈下に加え、骨格ともいえる心柱の根元が腐食。完成から約50年後には大規模な修理が行われた。天守の傾きがうわさとなって城下に広まったほどで、歴代城主は修理に腐心した。

幕末。姫路藩は朝敵となり、西の備前藩の砲撃を受ける。廃城は免れたが、建物の傷みは目を覆うばかりだったという。

明治期には、地元市民らが「白鷺城保存期成同盟会」を結成。1910~11年、城を管轄する陸軍が緊急修理を行った。34年には本格的な「昭和の大修理」が始まる。

ところが、日本は戦争に突入し、修理は中断。45年、姫路城下は空襲にさらされ、焼け野原となった。その中で、奇跡的に被害を免れた城を「不死鳥のように見えた」と語ったのは、姫路の詩人大塚徹。その感動を「あゝ白鷺城」などの詩に託した。

「昭和の大修理」は再開され、大天守を全解体し復元した。今回の「平成の大修理」では、風雨で傷んだ瓦をふき直し、壁の漆喰(しっくい)などを塗り直した。

「修理を繰り返し、当初の姿を守ったことで世界文化遺産にも選ばれた。世界に、日本の『木の文化』を理解してもらう大きな役割を果たした」。姫路城の歴史に詳しい兵庫県立大特任教授の中元孝迪さん(74)は、そうたたえる。「まさに、永遠の城だ」

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201503/0007857711.shtml
参照元記事 / 神戸新聞

空襲で焦土と化した城下町にすっくと立つ姫路城(兵庫県立歴史博物館蔵「高橋秀吉コレクション」) / 神戸新聞NEXT

空襲で焦土と化した城下町にすっくと立つ姫路城(兵庫県立歴史博物館蔵「高橋秀吉コレクション」) / 神戸新聞NEXT

「昭和の大修理」で素屋根の解体が進み、白亜の姿を現し始めた大天守(1963年ごろ、姫路市立城郭研究室提供) / 神戸新聞NEXT

「昭和の大修理」で素屋根の解体が進み、白亜の姿を現し始めた大天守(1963年ごろ、姫路市立城郭研究室提供) / 神戸新聞NEXT

青空にブルーインパルスが航跡を描き、白亜の姿を取り戻した大天守が陽光に輝いた=26日午前、姫路城(撮影・大森 武) / 神戸新聞NEXT

青空にブルーインパルスが航跡を描き、白亜の姿を取り戻した大天守が陽光に輝いた=26日午前、姫路城(撮影・大森 武) / 神戸新聞NEXT

 

 

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