戦後70年の夏を迎えた。京都の伝統芸能の世界も、先の大戦で大きな影響を受けた。能楽は拠点を失う無念を味わい、歌舞伎は戦災を免れた劇場が、芸能を守る最後のとりでとなった。当たり前に「舞台がある」平和の尊さを、今再びかみしめたい。
【能楽・観世能楽堂】強制取り壊し、拠点失う
京都観世会館(京都市左京区)のロビーの片隅に、2枚の衝立(ついたて)が置かれている。いずれも竹の絵が描かれ、そのうちの1枚には扉のような切り込みが入る。かつて能舞台の切戸口として使われていた名残で、戦時中に取り壊された「観世能楽堂」の面影を残す貴重な品だ。
観世能楽堂は1918年、上京区丸太町通河原町東入ルに建てられた。舞台開きを報じた京都日出新聞(同年10月14日付朝刊)の記事を読むと、「光線の取入れ工合(ぐあい)に餘程(よほど)注意を拂(はら)はれたる爲(た)めに見所の隅々隈(くま)なく明るい處(ところ)は遉(さすが)に理想に出來(でき)た舞臺(ぶたい)」と評され、細部もこだわり抜いた能楽の殿堂だったことをうかがわせる。
京都の観世流の拠点として数多くの公演が行われたが、第2次世界大戦に突入すると、「大東亜戦争必勝祈願能」と題した会や、新作能「皇軍艦(みいくさぶね)」の上演など戦時下の空気が舞台にも漂い始める。そして45年、行政から「強制疎開」の命令が下る。東隣に京都中央電話局上分局が建っていたため、空襲によって電話局への類焼を防ぐ、との理由だった。
取り壊しを前に、京都の観世流を統率する片山家の当主・博通は、息子の博太郎(後の幽雪)や慶次郎、門弟たちとともに、能面や装束、舞台板など、守るべき品々を大八車に詰め込み、自宅に避難させた。音響効果を高めるために舞台下に置く、大きな甕(かめ)も運び出したが、道中、憲兵に呼び止められ、「防火用の水甕に使う」と徴用されてしまったという。
同年4月15日、大黒柱に綱が掛けられ、能楽堂はあっけなく引き倒された。片山家の人々は、屋根が崩れ落ちるさまを、ぼうぜんと見守ったという。現在の当主・十世九郎右衛門は、亡き父・幽雪から当時の苦労を繰り返し聞かされた。「父は拠点を失うことの絶望感とみじめさ、一つの場所にじっくりと根を下ろして活動することの強さを、身にしみて知っていた」と思い起こす。
一門の悲願となった新しい能舞台・京都観世会館が完成したのは13年後の58年。苦労を重ねて築いた「日本一の能楽堂」だけに、幽雪はその舞台を愛し、渾身(こんしん)の能を舞うのみならず、80歳を迎える頃まで、率先して大掃除に参加していた。九郎右衛門は「父たちが手塩にかけて守ってきた舞台を、われわれも次の世代に引き継いでいきたい。舞台があることの幸せを、実感として持たなければいけない」と力を込める。
【歌舞伎・南座】被害免れ、興行の灯守る
年末の顔見世で知られる南座(東山区)は、戦中の苦境でも興行をほぼ休止することなく、歌舞伎の灯を守り切った。
1929年に改築された南座は、41年の開戦後も歌舞伎を中心に、喜劇や演芸などさまざまな舞台公演を続けた。戦局悪化の中、44年3月には、国の「高級享楽停止令」により、全国の大劇場とともに閉場に追い込まれる。それでも翌月には映画館として復活、10月以降はもとの劇場に戻った。
興行元の松竹編さんの「昭和の南座」によると、44年の顔見世は劇場正面に「竹矢来、招き看板にかわる土嚢(どのう)を積んだ」緊張感の中での公演だった。空襲警報が出され、休演になることもあったが、日本画家の橋本関雪は、京都新聞への寄稿文(同年12月10日付朝刊)で「この決戦下に芝居を見られるといふことは何としても有難い」と書いている。
45年になると、3月の大阪大空襲で角座や中座など、道頓堀の各劇場が焼失。5月には東京・歌舞伎座と新橋演舞場が焼けた。南座は戦火を免れた歌舞伎劇場として、6月にも公演を行い、終戦前日も関西歌舞伎が上演された記録が残る。そして終戦後の年末、再びまねき看板が掲げられ、いつも通り、京に師走の訪れを告げた。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150803000074
参照元記事 / 京都新聞