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島原のしめ縄の謎に迫る / 長崎

7万石の歴史が息づく城下町、島原市。古い武家屋敷や旧商家などが数多く残る町を歩いていると、不思議な光景を目にする。旧家などの軒先に、一年中飾られているしめ縄だ。島原人は正月のしめ縄を片付けるのも面倒くさがるずぼらな気質なのか、あるいは何か意味が込められた風習なのか-。謎を追った。

「観光客から『なぜ今の時期に飾っているの』とよく聞かれる。『取り外し忘れてますよ』と親切で教えてくれる人もいるほど」。江戸時代から続く山崎本店酒造場(白土町)の専務、山崎倫弘さん(55)はそう言ってダイダイが変色したしめ縄を指さした。習わしで代々続けているという。

店舗兼住居の建物も、現在は同社倉庫にしている道路向かい側の旧家も江戸時代の建築。共通するのは、通りに面した仏間と、仏事のときに使っていたという「不浄門」の存在だ。10代目当主、重裕さん(83)が「仏教徒であることが一目瞭然。島原の旧家に見られる特徴的な造り」と教えてくれた。

こうした仏間の配置や「不浄門」、一年を通じたしめ縄飾りに着目したユニークな研究がある。長岡造形大(新潟県長岡市)の宮澤智士研究室(当時)が、2000年から01年にかけて島原で実施した町並み・町屋調査。江戸末期から昭和初期に建てられた14軒の間取りの時代変化などを調べた。その結果、通りに面した目立つ場所に仏間を配していた建築様式が、明治に入ってキリスト教禁制が解かれるとその姿を消していったことなどが分かり、調査チームは「キリシタン弾圧時にキリシタンではないことを建物でアピールしていた」との結論を導き出した。建築史が専門で、現在は同大教授を退官した宮澤智士さん(77)は「島原でしめ縄を年中飾るのも同様の意図があり、それが習慣として残った」とみる。

年間を通じたしめ縄の風習は、実は島原半島と地理的に近く、歴史的にもかかわりが深い熊本県天草地方にも残る。点と点が線でつながったようにも思えるが、天草史談会代表の鶴田文史さん(78)は「史料として裏付ける文献がない。もしかするとキリシタン弾圧の名残なのかもしれないが、はっきりしたことは言えない」と慎重だ。島原市文化財保護審議会長で、島原城資料館解説員の松尾卓次さん(79)も「島原では武家屋敷だった旧家にも習慣が受け継がれている。武家なら、あえてキリシタンでないことを示す必要はなかったはず」と疑問を投げ掛ける。

松尾さんの見方はこうだ。「かつて島原は馬の重要な産地。各農家では馬が飼われ、災いから大事な馬を守るため、馬小屋には年中しめ縄が飾ってあった。その習慣が農家から町方に広がったのではないか。しめ縄を燃やし、1年間の無病息災を願う鬼火焚(た)きの習わしが廃れたことも関係しているように思う」

真夏も飾られたしめ縄の謎。その由来ははっきりと分からないが、今も続く風習は、戦時中の空襲被害を免れ、歴史ある町並みが残っていることの裏返しといえる。

島原中心市街地街づくり推進協議会事務局長の北村正保さん(65)は言う。「城、武家屋敷、町人町が、形としてこれだけ残っている地域は珍しい。『島原には何もない』と思っている市民も多いが、自分たちの町の誇り、財産に気づいてほしい。歴史を生かしたまちづくりへの住民意識を高め、島原をもっとアピールしていきたい」。藩政時代からの歴史、建築文化、そしてしめ縄のミステリーに思いをめぐらせながら島原の町を歩くのも楽しい。

http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2014/08/04092301014031.shtml
参照元記事 / 長崎新聞

江戸末期の築で、山崎本店酒造場が倉庫にしている旧家軒先に真夏も飾られたしめ縄=島原市 / 長崎新聞

江戸末期の築で、山崎本店酒造場が倉庫にしている旧家軒先に真夏も飾られたしめ縄=島原市 / 長崎新聞

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