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信長、秀吉らが九鬼家に宛てた印状発見 神戸の民家で

神戸市内の民家に保管されていた古文書4通が、織田信長や豊臣秀吉、秀次から、後に三田藩(現三田市)の藩主となった九鬼家に宛てた印状であることが分かり、寄託を受け調査していた神戸大(神戸市灘区)が8日発表した。いずれもこれまで存在が知られていなかった史料で、戦国時代から志摩国鳥羽(現三重県鳥羽市)で水軍として活躍した九鬼家が、朝鮮出兵の際に敵船を捕獲したことを褒めた内容などが記されている。

神戸大が8日、織田信長や豊臣秀吉らが九鬼家に宛てた印状だったと発表した古文書は、神戸市内の一般家庭に眠っていた。この家の40代の主婦が、祖父から譲り受け保管。昨年6月、「研究や教育に活用してほしい」と、同大大学院人文学研究科地域連携センターに持ち込み、同センターが調べていた。同センターの村井良介学術研究員は「九鬼家に関する文書が発見された例は少なく、今後の研究に役立ちそうだ」と話している。
印状4通の内訳は、信長の黒印状と秀吉の朱印状が各1通に、豊臣秀次の朱印状が計2通。1593年の秀吉の朱印状は、朝鮮出兵で出陣中の九鬼成隆に着物を贈ることを述べた上で、「これを着ていよいよ精を入れよ」などと激励する内容。同年の秀次の朱印状には、成隆の父嘉隆が朝鮮出兵で敵の2船を乗っ取ったことを挙げ、「適切な措置で、まことに見事な働き」などと記している。

また信長の黒印状は嘉隆宛てで、「天下布武」の刻印付き。「革衣とはかまが届いた。格別喜ばしく思う」と礼を述べている。

このほか秀吉直筆とみられる花押(署名の一種)がある紙片や、関ケ原の戦いの時期に徳川家康が出した書状の写しも見つかった。

これらの史料をまとめていた包み紙にあった由緒書きから、成隆を祖とし、三田藩家老を務めた九鬼図書家に伝わったものとみられるが、主婦は九鬼家とは関係なく、詳しい由来は不明という。

同大は印状などの公開も検討する。

 
【九鬼家】 戦国時代から水軍として活躍し、江戸時代には摂津国三田藩(現三田市)の藩主を務めた一族。志摩国鳥羽(現三重県鳥羽市)で水軍を率いた九鬼嘉隆が、織田信長や豊臣秀吉の下で働いた。家督を継いだ次男守隆(もりたか)は関ケ原の戦いで徳川家康についたが、守隆の子の久隆(ひさたか)と隆季(たかすえ)の間に家督争いが起こり、江戸幕府の意向で1633年、久隆が三田藩に、隆季は丹波国綾部藩(現京都府綾部市)に領地替えとなった。

〈大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長(織豊期政治史)の話〉 天下人らの手紙が、一般家庭にまとまって保存されていたことが珍しい。京都の綾部と三田に分かれた九鬼家の古文書が、家老の家にも伝わっていたようで、興味深い。九鬼水軍の活躍を裏付ける史料としても貴重。骨董(こっとう)的価値も高いので、今回、散逸を免れ、よかった。

 

http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201412/0007568162.shtml
参照元記事 / 神戸新聞NEXT

九鬼家に宛てた信長の黒印状(手前)などと分かった古文書類=8日午後、神戸市灘区六甲台町1、神戸大(撮影・小林良多) / 神戸新聞NEXT

九鬼家に宛てた信長の黒印状(手前)などと分かった古文書類=8日午後、神戸市灘区六甲台町1、神戸大(撮影・小林良多) / 神戸新聞NEXT

豊臣秀次が九鬼成隆に宛てた朱印状=8日午後、神戸市灘区六甲台町1、神戸大(撮影・小林良多) / 神戸新聞NEXT

豊臣秀次が九鬼成隆に宛てた朱印状=8日午後、神戸市灘区六甲台町1、神戸大(撮影・小林良多) / 神戸新聞NEXT

秀吉直筆とみられる花押がある紙片(左)。右の史料に「太閤秀吉」の文字が見える / 神戸新聞NEXT

秀吉直筆とみられる花押がある紙片(左)。右の史料に「太閤秀吉」の文字が見える / 神戸新聞NEXT

 

 

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