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立山信仰 解明に光 旧登拝道の神社 末社すべて確認

江戸から明治時代にかけて、立山信仰で多くの人々が踏みしめた立山・千寿ケ原から雄山神社まで全長二十キロの「旧登拝道」沿いで、信仰者たちの道しるべとされた同神社の本社と末社計三十六カ所の所在地が、富山県埋蔵文化財センターなどによる調査ですべて確認された。当時の人々がどういった経路で登拝していたか、詳しく解明する手掛かりとなりそうだ。

調査は、立山・黒部地域の世界遺産登録に向けた資料作成のために、二〇一〇年度から五年計画で実施。同神社にあった古文書などの一覧に三十六カ所が記されており、同センターの職員らが実施した一三年度までの調査では、痕跡なども含め二十七カ所が確認されていた。

最終年の本年度は、真砂岳(まさごだけ)や地獄谷の尾根などを調べ、新たに九カ所を確認した。

三十六カ所の位置は一部を除き、全長二十キロほどの旧登拝道沿いだった。安念幹倫・同センター長によると、末社付近には温泉などの休憩地もあったと考えられ、「道のたどり方が明らかになれば登拝者の休憩地などの詳細な様子も分かる」と強調する。

調査ではほかに、別山(べっさん)と真砂岳の間の登山道にある高さ約四十センチの不動明王の石仏が、室堂にある石仏と同じ福井県の石でできていることが判明。室堂の石仏は、火災で焼失した金沢城二の丸の再建祝いとして加賀藩の関係者が寄進したとされており、不動明王も同様に寄進された可能性があるという。

今回の調査結果は、十七日に富山市内であった立山・黒部山岳遺跡調査指導委員会で報告された。新年度中に調査結果を報告書としてまとめる。

 
立山信仰 日本三大霊山の一つの北アルプス・立山連峰で、平安時代から始まったとされる山にこもる修行。当時は僧侶だけが登拝できたが、江戸時代には男性に限り庶民も参加できた。明治以降、仏教排斥運動の「廃仏毀釈(きしゃく)」の影響で下火になった。

 
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2015021802100007.html
参照元記事 / 中日新聞

立山・地獄谷西側で確認された末社=富山県埋蔵文化財センター提供 / 中日新聞

立山・地獄谷西側で確認された末社=富山県埋蔵文化財センター提供 / 中日新聞

立山の旧登拝道 / 中日新聞

立山の旧登拝道 / 中日新聞

 

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