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千の証言:学徒出陣の若き作曲家 未完のオペラ楽譜発見

東京音楽学校(現・東京芸術大)から学徒出陣し、終戦を知らないまま戦地で自決した神戸市出身の村野弘二さん(当時22歳)が残した未完のオペラ楽譜とレコードが遺族宅で見つかった。村野さんは作曲家、團伊玖磨(だん・いくま)(1924〜2001年)と同期で、團はそのオペラを「傑作」と称賛。團を含め著名な音楽家らが戦後、楽譜を探したものの見つからなかった幻の作品だった。遺族は「夢半ばで無念の死を遂げた若者を通して戦争の罪深さを知ってほしい」と話している。

村野さんは旧制神戸一中(現・兵庫県立神戸高校)を卒業し、42年に音楽学校予科に入学。作曲を専攻し、他の同期生には童謡「サッちゃん」などで知られる作曲家、大中恩(めぐみ)さん(90)らがいた。

43年12月に学徒出陣で陸軍通信隊に入り、その後、フィリピン・ルソン島北部の部隊に配属された。終戦前後、日本軍は山岳地帯で飢餓や伝染病に苦しみ、多数の死者を出した。マラリアで衰弱した村野さんは、終戦から6日後の45年8月21日、拳銃で自決したとみられる。

村野さんのオペラは、東京美術学校を創設した美術家・岡倉天心原作の「白狐(びゃっこ)」。見つかったのは、キツネの「こるは」がピアノ伴奏で独唱する第2幕の楽譜の一部。計14ページのうち13ページはペン書きで、最後の「extra」のみ、他とは違う五線譜を使い、「こるは独唱、終結」とのタイトルを入れて、鉛筆で書かれていた。

楽譜は、京都府京田辺市の村野さんの弟康さん(93年死去)宅に保管されていた。これまで見過ごされてきたが、村野さんのめいの中林敦子さん(53)=埼玉県入間市=が「千の証言」に投稿したのを機に、康さんの遺品を整理。手書き楽譜や教本、家族の手記などを毎日新聞とTBSテレビの共同取材班に託した。取材の結果、「白狐」の直筆楽譜が含まれていることが判明。楽譜と同じ「こるは独唱」を吹き込んだ自主制作レコードもおいの朗さん(50)=千葉市花見川区=宅で見つかった。

この作品を巡っては、音楽評論家の大田黒元雄(1893〜1979年)が、終戦翌年に音楽誌のエッセーで取り上げた。團から聞いた話として「日本人の作曲としてめずらしい傑作」と評価し、團が「遺稿さえあればなんとか完成したい」と言っている、とのエピソードを紹介した。大田黒が楽譜を探していたため、村野さんの父が康さんに楽譜を転写させ、大田黒に送ったという。

今回の取材で、その転写楽譜が明治学院大図書館付属日本近代音楽館(東京都港区)の大田黒寄贈品の中にあることが新たに分かり、康さんが添えたメモも残っていた。メモには、直筆楽譜の3カ所を修正している点を指摘し、「extra」だけ違う五線譜に鉛筆書きしていることにも言及。康さん宅に保管されていた楽譜の特徴と完全に一致したため、直筆と確認された。

またメモの中で康さんは、43年11月にあった東京音楽学校の演奏会のため、今回見つかった「こるは独唱」だけを抜き出し、「extra」を書き加えて発表したと推測。他の部分はないとしている。【牧野宏美、TBSディレクター・大野慎二郎】

 
【ことば】オペラ「白狐」

日本近代美術の父と言われた岡倉天心(1862〜1913年)が、ボストン美術館の部長を務めていた1913年、大阪・信太(しのだ)の森の葛の葉(くずのは)伝説をもとにオペラの台本として書いた英語作品。「こるは」という狐が自分の命を助けた男に恩返しするため、男の妻に化けるストーリー。天心が完成後間もなく亡くなり、曲は付けられなかった。2007年に東京芸術大創立120年記念企画として米・ボストン在住の作曲家、戸口純さんが作曲して英語上演されたほか、13年に平井秀明さんの作曲により新潟県妙高市で日本語上演された。

 
http://mainichi.jp/select/news/20150619k0000m040107000c.html
参照元記事 / 毎日新聞

村野弘二さん直筆の「白狐」の楽譜。鉛筆で修正を加えた部分がある=東京都千代田区で、丸山博撮影 / 毎日新聞

村野弘二さん直筆の「白狐」の楽譜。鉛筆で修正を加えた部分がある=東京都千代田区で、丸山博撮影 / 毎日新聞

村野弘二さんの写真(手前)と曲のレコード、楽譜=東京都台東区の東京芸大で2015年6月10日、森田剛史撮影 / 毎日新聞

村野弘二さんの写真(手前)と曲のレコード、楽譜=東京都台東区の東京芸大で2015年6月10日、森田剛史撮影 / 毎日新聞

 

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