猛暑が続き、食欲やスタミナが落ちていませんか? そんな時、手軽に調理できて肉や野菜をたっぷり食べられるのが、「しゃぶしゃぶ」です。1947年、戦後まもない京都で「牛肉の水炊き」として誕生しました。「用の美」を提唱した民芸運動の人たちのアイデアと後押し、中国料理から着想を得て、2年近く試行錯誤を重ねて生み出された味でした。
■飾りの石鍋が発端
舞台は、京都市東山区の料理屋「十二段家」。もとは大正期に和菓子店として創業した。お茶漬けが評判になり、料理屋に転じて繁盛したが、1944年に廃業。2代目を担う西垣光温は当時、大阪で書店を営み、棟方志功や河井寬次郎と交流していたが、大阪大空襲に遭い京都へ移り住んだ。
その際、河井から「(初代が)下ろした看板、もう一度上げたらどうや」と勧められ、45年9月に料理屋を再興した。光温の審美眼で貫かれた店内は、河井や濱田庄司の皿や花器、棟方の版画が随所に飾られた。
ある日、北京から引き揚げた医師の吉田璋也が店を訪ねてきた。後に故郷で「鳥取民藝館」(現鳥取民藝美術館)を開設するなど民芸運動にも尽力した吉田は、店内のあるものにふと目を止める。石鍋だ。現主人、4代目西垣光浩さん(47)は「祖父(光温)が京都の古美術店で買いました。とはいえ、何に使うのかは知らず、造形美にひかれて店内に飾っていました」と伝え聞く。
吉田が光温に言う。「西垣君、この鍋自体は石でできているから使えないけれど、これで作る料理は知っているかい?」。それは「刷羊肉(しゅあんやんろう)」と呼ばれる北京の代表料理だった。中央に炭を入れる煙突が据えられた独特の形の鍋を使って、薄く切った羊肉をさっとゆがいて食べるという。
興味を持った光温は羊肉を牛肉に変えて作ってみることにした。見たこともない料理を想像し、肉の厚みや野菜の取り合わせの試作を重ねた。特にたれは苦心した。中国では食べる時にさまざまな調味料を合わせるが、光温は「日本人にはごまだれが合う」と考えた。配合の研究を続け、吉田や河井、棟方が来店するたびに味見を請うた。鍋も熱伝導のよい銅で専用のものを作ろうと、吉田に指導を受けながらデザインも工夫した。
時を経て47年。納得できる味がようやく完成し、「牛肉の水炊き」として売り出した。新しい食べ物は評判を呼ぶ。「祖父は『おいしいものを独り占めしたくない』と思い、たれの調合も含めて惜しみなく伝えたそうです」(光浩さん)。さらに、民芸運動に携わる人々によっても、その料理と味は、全国へ広まっていった。
■擬音好きの関西人に受け
「牛肉の水炊き」は、その後、「しゃぶしゃぶ」として親しまれる。この名称を考案したのは、棟方とゆかりがある「永楽町スエヒロ本店」(大阪市北区)の2代目・三宅忠一だった。従業員が調理場でおしぼりを洗濯している音を聞き、肉をさっとゆがくのは「しゃぶしゃぶと肉の洗濯をしている」と思いついた。58年、「肉のしゃぶしゃぶ」「スエヒロのしゃぶしゃぶ」を商標登録する。
朝礼で発表した際、店員から笑い声が起こった。「関西人はオノマトペが好き。祖父は料理の特徴を上手につかんだのではないか」。三宅の孫で現代表の一郎さん(52)は思いを巡らせる。
誕生から約60年。精肉売り場ではしゃぶしゃぶ用の肉が幅をきかせ、テレビからはしゃぶしゃぶ用のたれのCMが流れる。「祖父は広まっていくことを喜んでいた」。西垣光浩さん、三宅一郎さんは同じ言葉を発した。彼らの姿勢は、一個人の名誉ではなく、ものの本質に重きを置いた民芸運動と重なる。
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150810000065
参照元記事 / 京都新聞