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「往来手形」に一茶の足跡 信濃町の民家で見つかる / 長野

上水内郡信濃町出身で江戸時代の俳人小林一茶(1763~1827年)が関所を通る際に使用した「往来手形」が町内の民家で見つかり、近く一茶記念館(信濃町)で一般公開されることになった。同館によると、一茶が旅をするために使った往来手形はほかに現存している物がなく、「当時の一茶の足跡をたどることができる貴重な資料」としている。

見つかったのは1817(文化14)年の往来手形。1978(昭和53)年に刊行された「一茶全集(別巻)」にその内容が紹介されており、信濃町柏原の中村昶(あきら)さん(故人)所蔵とされていたが、現物がどこにあるのか分からなくなっていた。一茶記念館からの依頼を受けた昶さんの長男忠洋さん(71)が昨年3月、客間の額の中から往来手形を見つけ、同館に連絡した。

手形は縦29センチ、横32センチの和紙に墨で書かれ、右下に「剃髪一茶」と記されている。巡礼に行くために関所の通行を求め、万が一、道中で行き倒れになった時はその土地の作法に従って処置してほしい―といった内容で、日付は「文化十四年六月十日」。発行者は、一茶が住んでいたことのあった勝智院(しょうちいん)(東京都江東区)と書かれている。

一茶記念館によると、一茶の句日記「七番日記」には、文化14年6月27日に一茶が江戸から帰途に就き、30日に小諸、7月4日に柏原に帰宅したとの記述がある。

こうしたことから、一茶記念館の中村敦子学芸員は、6月30日の朝に一茶が碓氷関所(現在の群馬県安中市)を通る時に使用し、持ち帰った物とみている。

中村学芸員によると、一茶は信濃町の明専寺(みょうせんじ)の檀家(だんか)で、通常、往来手形は同寺が発行する。しかし、文化13年に江戸へ出た一茶は同年に病気を患い、明専寺が発行した手形を紛失するなどしたため、勝智院に往来手形の発行を頼んだのではないかとみる。

中村学芸員は「当時は巡礼を目的とすることが関所を簡単に通れる方法とされていた」とした上で「一茶が故郷に帰るために、勝智院の檀家に成り済まし、目的も巡礼だと偽ったのではないか」としている。

http://www.shinmai.co.jp/news/20150517/KT150515FTI090039000.php
参照元記事 / 信毎web

信濃町の民家から見つかった小林一茶が使った往来手形 / 信毎web

信濃町の民家から見つかった小林一茶が使った往来手形 / 信毎web

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